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中高一貫生は環境が狭いのか?

この1週間で、「中入生と高入生の問題」というテーマで3本の記事を書いた。
「2020中入生と高入生の問題を考える」(2020/06/12)
「2020中入生と高入生の問題を考える2~もはや違う学校の大学実績である」(2020/06/13)
「2020中入生と高入生の問題を考える3~「~という説があります」に引っ掛かる人たち」(2020/06/13)

で、今回はその番外編という位置づけの話題です。

中学受験をめぐる話、というか、中学受験をネガティブに話すときに、「中学受験すると世界が狭くなる」というのがある。
「公立中には様々な生徒がいて、様々な価値観があって云々」という話である。
で、最後には、「多様性がなんちゃらかんちゃらだから、中学受験をする子供は~~~~だ」ということになる。

ところが同じ人が「中学受験した友達と、結局同じ大学に行きました」と鼻息荒く報告してきたりする。
大学の序列で勝ち負けを決めるところなんかは、多様性も様々な価値観も蹴飛ばしていて、爽快ですらある。

さて、3本の記事の取っ掛かりになった自称「都内公立中高一貫校の高校生」さんが、某教育風掲示板で次のようなことを書いたので、ものはついでだ、この件に関しても考えてみよう。

同じ教育レベルの人達としか関わりを持たないと将来社会に出た時に関わる人達が制限されてしまうのでは?(公立中学校は様々な家庭環境の人がおり人格形成には非常に良い刺激がくるかと)

「地元公立中」と「受験して入った中学」の環境の違いは何でしょうか?
「地元公立中」はほぼ同じ地域文化の人達だけです。翻って「受験して入った中学」はほぼ同じ学力層の人達です。
「いや、同じ地域だと言っても千差万別だ」というなら、同じような言葉が返ってきます。
「いや、同じ学力層だと言っても千差万別だ」と。
それにそもそも3年間公立中学に行ったたからと言って、「人格形成には非常に良い刺激がくる」というのは期待しすぎです。

たとえばこういう「模式図」を作ればわかるかな。
A:文化は地元の狭い範囲+教育レベルは広い範囲
B:文化は比較的広い範囲+教育レベルは狭い範囲
C:文化はとても広い範囲(言語の通じない場合も)+教育レベルは狭い範囲

<小学校-公立中-高校-大学>
A環境(9年)-B環境(3年)-C環境(4年)

<小学校-中高一貫-大学>
A環境(6年)-B環境(6年)-C環境(4年)

これを見る限り、<小学校-中高一貫-大学>の方がずっとバランスのいい「環境の変遷」をしているように見える。
また、「同じ教育レベルの人達」と過ごすのが負の経験になるというなら、高校は偏差値に合わないところに行った方がいいでしょう。
それも普通科よりも工業科や商業科の方が学力層の幅は広い。

さらに言えば、もし違う環境に置かれることが「人格形成には非常に良い刺激がくる」というなら、浪人生はもっと優遇されてしかるべきだろう。
しかし、「中学受験者は環境が狭い」と言っている人の中で、誰も「高校は普通科じゃなくて工業科か商業科」「浪人生は人格が優れている」と言ってないところを見ると、自分たちがいかなる隘路にはまり込んでしまったかの自覚はないんだろうな。

校則3
<ちなみに私立にしろ公立にしろ、こんなにがんじがらめにしたいなら、もはや「多様性」も「様々な価値観」も学校には触れさせる気がゼロだということだ。>

このブログで何度も書いていることですが、中学受験をしようとしまいと、それは各家庭の自由裁量の中にある。
正しいも正しくないもない。
頭が良いから中学受験すべきとも、カネがないから中学受験してはいけないとも言わない。
各家庭が考えればいい話だ。

但し、自分を肯定する理由を(あるいは相手を否定する理由を)表明した瞬間、その文言は議論・分析の的となる。
今回のケースで言うなら、冒頭の「同じ教育レベルの人達としか~~」という書き込みは、いささか知恵の足りない書き込みであったと思う。

というわけで、上記のように俺も自分の考えを表明しているので、この記事の内容も議論・分析の的になる宿命を持つ。

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コメント

No title

まあ、 「小学校からずっと慶応」 なんて奴を見ると 「世界狭くね?」 なんて嫌味の一つも言いたくなる気持ちもわかる。

 「俺ずっと国立」  「どこ?」
「筑波大附属小 筑波大附属駒場 東大」

 これはこれで 「視野狭くね?」とやっかみの一つも言いたくなる。

 公立ならいいのか?

「番町小学校 麹町中学 日比谷高校 東大」

マンションいくらで買ったんだよ?エリートじゃん!

「俺 開成から東大」

うーん。これはこれで・・・

 要するにエリートには嫌味 やっかみを言いたくなるのだ。 

※個人の感想です

※番町小学校・・「マンションいくらで買ったんだよ?」って聞いて「持ち家だよ。先祖代々の」なんて言われたら ひれ伏して嫌味も言えないが。

確かに生身の人間同士のコミュニケーションは大切ですし学ぶところも多いですが、一人の人間が触れることのできる他者の数やタイプには自ずと限界があります。
多様な価値に触れるには、人と接触する以外にも、物語や論説文、漫画などを読んだり、テレビや映画を見たり、色々とやりようがあると思います。
(他の人々がどうなのかわかりませんが、私の頭の中にある様々なものの見方は、他者との直接的接触によって獲得したものよりも、本やテレビ、ネットなどの媒体を通じて獲得したもののほうがはるかに多いような気がします)

話がそれますが、「中学受験をする子供は~~だ」系の言説で私がピンとこないのは、「子供の頃から受験勉強で答えのある問題ばかり解いても、大人になって答えのない問題に直面したときには役に立たない」というもの。
言わんとすることはわかりますが、関係ないのではないか。
むしろ、答えのある問題をきちんと筋道を立てて解く力を身につけることは、答えのない問題に向き合うための大前提なのではなかろうか。

No title

 「多様性」ってまあ流行語みたいなもんだが、実はよくわからない。

 生物学的にはわかる。 例えば人間がみんな同じ遺伝子なら一個の感染症で全滅してしまう可能性もある。種の多様性とかもまあわかる。

 会社組織の多様性も似たような文脈で使われる。 「多様性がないと変化に弱い」といった感じだ。

 では多様性があると変化に強いのだろうか。

 よーわからん。相関はあるかもしれないが因果なのかどうか。

 会社の社長とかが、「うちは多様性には自信があります」と自慢したりする。 自慢するもんでもないと思うが、まあいいや。

 色々聞いてみると「暴走族上がりがいる」とかそんな感じで、「学歴だけで採用していません」ということが言いたいらしい。 それが多様性なのだろうか? わからん。

 もっとも、町の柄の悪い工務店が「うちには暴走族上がりがいるよ」といっても誰も感心しないから、 「うちは上場するような立派な会社なのに 暴走族上がりがいるような多様性がある」という文脈なのだろう。

 話が逸れた。日本では「学歴重視で採用する=多様性がない」 というロジックが多いのだ。

 やっぱりよくわからん。

 変化に弱いのは多様性より「組織文化」の問題だとオラは思うが、まあいいや。

No title

>こんなにがんじがらめにしたいなら

アホ息子2号が、公立の校則、というか理不尽さに嫌気がさしている。

 今日は、暑くて体操着の上着をパタパタさせていたら怒られたというのだ。 
 ほほほ。あるある。 公立の理不尽な怒られ方。(オラもある。 足が痛くて友人におぶってもらっって保健室行こうとしたら生徒指導の先生に怒られた。 なんで怒られたのか今以てわからん。)

 中学受験で自由な学校なんぞ行ったら「世の中には理不尽がある」ことを知らずに大人になるかもしれんな。  

 中学受験は不公平だ。 みんなこの理不尽を経験すべきだ。

-このブログ唯一の公立派のハルビンカフェより


※次男は、校則が嫌だから自由な学校に入りたいらしい。 そのために勉強する。なんだか変なロジックだが、なんでもええから勉強せい!

多様性

公立派のや共学派の方が主張する「多様性に難があるから中学受験や別学は問題がある」との論理は一理ある。

と思う一方、多様性を重んじるといいつつ少数派である中学受験組や別学組を許容出来ない人達を目にすると、そういう教育を受けてもその程度なら大した価値は無いと思う。

No title

>答えのある問題をきちんと筋道を立てて解く力を身につけることは、答えのない問題に向き合うための大前提なのではなかろうか。

その通りです。

答えのある問題すら解けない人間が、答えのない問題(これも意味も分からず言っているのでしょうが、つまりは「誰も答えを見つけていない問題」と解釈しましょうか)を解けるはずもありません。

No title

某教育風サイト以外で「多様性があるから公立中が良い」言説を唱えている方を一人知っています。『里山資本主義』のエコノミスト藻谷浩介氏です。「藻谷浩介 中学受験」で検索すると関連記事がいろいろ出てきます。
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09301310/

藻谷氏の主張は突っ込みどころが多い。たとえば、公立小中学校時代に何度か自殺を考えるほどの酷い虐めにあっていた、と書かれているが、そんな地獄のような環境にわざわざ我が子を放り込もうとする親がいるだろうか?
また、自分が兵庫や鹿児島に生まれ育っていたなら、灘やラサールに隔離されていただろうとも書かれているが、中学受験未経験だけに見立てが甘くないだろうか?
いずれにせよ、氏は地方創生の旗振り役なので、どうしても発言にポジショントークの匂いを感じてしまう。教育環境に恵まれた都会で子育てしようとする親が増えるのを食い止めようとしている立場の人だから。

No title

「多様性」:某教育風掲示板で、公立中を勧める方、より正確には、中学受験を否定する方がよく使う単語ですね。

塾や個別指導に資金を費やし、学力試験を経て入学した生徒とその家庭に比べれば、そうでない公立中の生徒とその家庭の方が、生徒の学力、家庭の経済力にバラツキがあるというのは、おそらく正しいでしょう。しかし、「自分と学力や家庭環境が異なる生徒が同じ空間に居る」ということと、「そういう違いに対する理解や理性が養われる」というのは、全く違う話です。

世界中で人種差別や、門地、学歴、職業などによる差別の問題が一向に無くならない様子を見れば、「自分と異なる人間が存在する」ことを体感するだけでは、違いを理解して融和するということに繋がらないのは明白でしょう。

人間を自然の状態に放置すれば、自分と異質の物を排除する生存本能が働きます。ホモ・サピエンスが現存する唯一の人類なのは、他の人類を暴力的な方法で駆逐したからです。ホモ・サピエンスの間でも、人種や民族や宗教などの違いによる血生臭い争いが数え切れないほど繰り返されて来ました。

そういう悲劇を起こさぬには、教育が不可欠だと思うのですが、公立中において、人類の歴史、人種、民族、宗教、そして多様性を受容することなどに対する教育は、どの程度行われているのでしょうか。

修徳および東洋大の皆様すいません

>要するにエリートには嫌味 やっかみを言いたくなるのだ。 

これは人間の心の深いところを抉ってますなあ。

たとえば修徳中→修徳高→東洋大学には誰もケチはつけないでしょう。
これが桐朋中→桐朋高→早稲田大学だとケチがつき、
開成中→開成高→東大となると、「世間のことを何も知らない」とレッテルが貼られます。

カーブを打つ練習

>多様な価値に触れるには、人と接触する以外にも、物語や論説文、漫画などを読んだり、テレビや映画を見たり、色々とやりようがあると思います。

俺もそう思います。
ですから俺は本を読まない・映画を見ない人間を、ひとつ下に見ています。
読書レイシストです。

>答えのある問題をきちんと筋道を立てて解く力を身につけることは、答えのない問題に向き合うための大前提なのではなかろうか。

カーブを打つ練習をしてカーブを打てるようにならないと、実践でカーブを打てません。
「カーブだとわかっている球を打っても練習にはならない」なんていう人、いませんからね。

「子供の頃から受験勉強で答えのある問題ばかり解いても、大人になって答えのない問題に直面したときには役に立たない」
という人は、

1.何か勘違いしているか
2.そういう言葉がカッコいいと思って使っているだけなのか
3.あまり問題解決する力ないのか

のいずれかと思っています。

ちなみに俺は「答えのない問題」というのはないと思います。
もしそういうものがあるとしたら、問いの設定にミスがあるのではないかと疑った方が良いです。

たぶん
「子供の頃から受験勉強で答えのある問題ばかり解いても、大人になって答えのない問題に直面したときには役に立たない」
という人の言っている「問題」とは、リーマン予想やゴールドバッハ問題とは全く関係のない、「こんなときどうしたらいいか?」みたいな話でしょうから。

「多様性」について、以前にもどこかで似たようなやりとりをしたことがあるなと思いましたが、2020/01/06のJGさんの記事『中学受験デメリット祭り2』でしたね。
私の考えはその記事のコメント『「価値観の多様性」私論』に書いたとおりです。

上に陸宿借さんが書かれたように、「多様であること」と「多様であることを理解し受容すること」は次元の違う話です。
「多様であること」、つまり「自分とは異なる他者の存在」の認識を出発点としつつも、そこに止まらずに、どこが異なるか、なぜ異なるか、その差異はどういう意味・背景を持つか、その差異を先人たちはどのように扱ってきたか、他者からは自分がどう見えているかなど、思考の羽を広げて旅をし、そしてもう一度「いまここにいる自分」に立ち返らなければならない。
知ること(事実認識)からスタートして、考えること(思考)へと飛躍しなければならない。

私は、JGさんが2018/03/20の記事『クイズ:どこの私立中学のエピソードでしょうか?』に書かれたエピソードが大好きなのですが、
少年が「俺は歴史を習ってるんじゃない。歴史の勉強の仕方を習っているんだ」と言ったとき、その少年はもう事実認識の世界を飛び越えて、思考の世界へと旅立っている。

>-このブログ唯一の公立派のハルビンカフェより

ハルビンさんは半ばジョークとしておっしゃっているのだと思いますが、
私の見立てでは、このブログにいる人はおそらく皆さん(過激な意味での)公立派でも私立派でもジャコバン派でもないように思います。

ところで、某掲示板での一部の人の投稿をみていて、次のようなことを考えさせられます。

(1) ある主張Xとその対立主張Yがあるとする。
Aさんが主張Xを支持し、その論拠を述べる。
これに対しBさんがその論拠を批判する。
するとAさんはBさんのことを主張Yの支持者であるとみなしてしまう。

(2) Cさんが「pはqである」との命題が真であると主張したとする。
これに対しDさんが、「Cさんは「pでなければqではない」と考えている」として論を運んでしまう。

上記(1)も(2)も論理的には必ずしも正しくない。
上記(1)については、BさんはAさんが挙げた論拠の妥当性を批判しているに過ぎず、結論としてはBさんもAさんと同じく主張Xの支持者であるかもしれない。

上記(2)については、数学の集合論で習うとおり、
「pならばqである」が真であるとき、
「qでなければpでない」(対偶)は真であるが、
「pでなければqでない」(裏)や「qならばpである」(逆)は必ずしも真ではない。

上記の点がごちゃごちゃした論の運びを見ると、ちょっとモヤモヤします。

No title

あくきんさんに紹介頂いた藻谷氏の記事、拝見しましたが、ロジック不在、自説をサポートする実例も皆無。妄想と思い込みで全てが組み立てられています。これで自称東大卒。なんだかどこかの掲示板で見たような光景です。

氏が言う、不良とかヤクザとか凸凹な人達に言うことを聞かせるのに必要なのは、コミュニケーション能力でもロジックでも理念でもなく、力、金、脅しです。そういう能力に長けた方は、そういう世界に留まって頂くべきであって、堅気の世界でリーダーとして活躍されては困るのです。

No title

>(1) ある主張Xとその対立主張Yがあるとする。
Aさんが主張Xを支持し、その論拠を述べる。
これに対しBさんがその論拠を批判する。
するとAさんはBさんのことを主張Yの支持者であるとみなしてしまう。

「別学はつまらない、共学に行くと豊かな人間性が育つ、論拠は私がそう思うから、子供を見てるとそう感じるから。」

こういう書き込みに対して、それじゃ論拠になってないのでは?と書くと、全て別学派と認定する方が、某教育風掲示板で長らく活躍されていましたね。

No title

>力、金、脅しです。そういう能力に長けた方は

 オラ、思うが ダメな社員ほど「聞いてない」「筋を通せ」 「オラを通せ」みたいなことをいう。 なんだかヤクザの論理と一緒なのだ。
 
 で、上流国民の政治の世界を見ると。。。

「聞いてない」「なんでオラに言わない」 ・・・

 同じなのだ。

 常々、ヤクザの世界と「ダメな社会人」と 政治は似ているなあと思っている。

 要するに「ナワバリ」「既得権」にすがるのはヤクザも 政治家も 会社員も一緒で、それは「ダメ」なんでないのかなあ。

No title

陸宿借さん

藻谷さんの奥様は
「私は、都会にいたら中学受験に巻き込まれてしまう。それが嫌なので、田舎に引っ越したんです。もし都心部に残っていたとしたら、やっぱり子どもなりに疑問を持ったと思うんですね。「周囲はみんな塾に通って中学受験をするのに、どうして私は受験をさせてもらえないの?」と。でも、長野に移住したら中学受験という選択の余地はなく、周囲と一緒に地元の中学校に進んで、県立高校に行ったわけです。」
のように言われていて、これが本音なのだと思います。
「理不尽な人とも付き合っていける力」を育むには公立中が良いと藻谷氏は書かれているけれども、それならわざわざ長野に移住しなくても東京の公立中に通わせればよいわけです。長野の公立の方がより荒れていて、将来リーダーになる子がコミュ力を鍛える上ではよりのぞましい、なんてことはないでしょうからね。「どうして他の家の子はゲームを好きなだけできるのに、うちでは買ってもらえないの?」とお子さんに聞かれた場合には、「我が家の教育方針だから」ってぴしゃっと言える方だとも思うのです。
御夫婦としては「田舎で子育てがしたい」が先にあって、コミュ力云々は後付けの理由のように思いました。

某教育風サイトには藻谷氏のコメントを真似して書いている人がいそうですね。


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以前もここ(か某掲示板)に書いたような気がしますが、私の父は地方公立高校出身でした。
私が小学生のころ、公立中高の多様性を主張して中学受験に慎重でした。
母親も地方公立出身でしたが、ママ友情報から中学受験の重要性を強く主張しました(40年くらいも昔)。
家庭内では母親が強いので、母親の意見が通って、私は中学受験することになりました。
しかし父親をリスペクトしていた私は、中学入学後「進学校は似たような環境の子供を集めた場所で多様性に欠けているんだ、僕たちは井の中の蛙に過ぎないんだ」というような主張をしたところ、総スカンを食らいました。

あれから時がたち、私(都内進学校出身)妻(公立出身)の我が家では、数年前に子供たちに中学受験をさせました。
多様性に富んだ公立と均一な環境の進学校、どちらが理想かは正直よくわかりませんでした。
でも、私自身は均一な環境の進学校生活を楽しんだので、子供たちもそれでいいんじゃないかな、と思いました。

年取ると理想を語らなくなるというのは、こういうことなのかなあ、と思いました。
まあ、人生楽しければそれでいいじゃないか、と。

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 市川中が募集要項を公表した。

 見ると、例年通り。(メッセ試験だ) 日程や場所は全く調整していないようだ。

 他の学校も、「例年通り」なんだろうか。

 あとは「熱がある場合」 どうするか・・・

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 今日 アホ息子1号と飲みながら雑談していた。

 オラ「中学受験ってさあ。 なんだかよくわからないし辛いけど、あの時期に 超難しい国語の問題とか算数の論理問題に取り組むって やっぱり意味があると思うんだよね」
アホ「そりゃそうだと思うよ」
オラ「そうなんだよ。意味はあるんだよ。でも辛いよね」
アホ「辛い」
オラ「君がさあ、将来子供ができてその子に中学受験させるかあ?って話だよ」
アホ「子供が やりたいって言ったらさせればいいんじゃないの」

 バカ言ってんじゃないよ。 どこの世界に「中学受験したい」「勉強したい」なんて子供がいるんだよ。
そんな子供はエデュという異国にしかいないんだよ。
楽しんで東大入るようなバケモンがすむ国の話だよ。

 それ以外は親が「やらせる」んだよ。  ほほほ

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ジャーナル・ギャップ

Author:ジャーナル・ギャップ
酒と野球とミステリーをこよなく愛するが、なんの因果か中学受験についていろいろ書いていくことに。

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