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ラテラル・シンキングと英語問題

ラテラル・シンキングというのを知ってますか?
最近ではロジカル・シンキングと対になって紹介されることが多く、ロジカル・シンキングを垂直思考、ラテラル・シンキングを水平思考、などと称することも。

ラテラル・シンキングの特徴の一つは、常識を疑うことにあります。
また、本質のみを取り出すことで、本質にまとわりついていた「その他」を剥ぎ取ってしまうということも、特徴のうちに上げられます。

さて、ラテラル・シンキングを理解するうえでの、こんな例題をご紹介しましょう。

例題:3名の幼稚園児に7個のリンゴを均等に分けるとしたら、あなたはどうしますか?

2個ずつ配って最後の1個を3等分するのは、どちらかといえば「ロジカル・シンキング」です。
ラテラル・シンキングならば、7個をミキサーにかけてジュースにして3等分する、ジャムを作って3等分する、2個ずつ配って最後の1個を植えて、実がなったら3等分する。
こんな解答になるそうです。

「こんな解答になるそうです」という他人事な表現で分かるように、俺は気に入ってません。
なぜならこの解答はすべて、「3等分」という技術的な難しさを回避するために出てきているからです。
俺ならこう答えます。
「2個買ってきて3個ずつ分ける」あるいは「1個は隠して2個ずつ分ける」。

最初に書いたように、ラテラル・シンキングの特徴の一つは、常識を疑うこと、そして本質をつかむことです。
「均等に分ける」と設問にあろうとも、前提の7個をごまかしたって、「本質として」3人の幼稚園児に公平感を与えられればいいわけです。
ジュースやジャムを作ってもいいでしょうが、こういう解答は「7個のリンゴ」の「7個」に縛られてます。まだ常識・前提を疑えていません。

世の中にはラテラル・シンキングの本が溢れています。
しかし殆どは、申し訳ないけど「読む価値なし」。
出来の悪いとんち本レベルです。


「日本人は何のために子供たちに英語を勉強させるのか?」(2019/11/07)にも書きましたが、英語民間試験導入延期の際に当ブログの論客の一人である陸宿借さんが、英語民間試験の延期というニュースに関して

こうしている間にも、AIによる翻訳・通訳のクオリティは進歩を続けています。

という警句を書いてくれました。
これこそラテラル・シンキングだと思います。

英語は「話す・書く・読む・聞く」という4つの技能を身につけるために勉強するのだというのなら、「英語教育をいかに教えるのか、そしていかに判定するのか」を深く掘っていくのがロジカル・シンキング。
ラテラル・シンキングならば、「自動翻訳を高性能化すりゃいいじゃん。いっそのこと世界を統一言語にすれば話は簡単」。

英語を身につけるということが重要なのではなく、違う言語の人とでも最低限のコミュニケーションをとれるということが本質なのだから、それができるなら英語が喋れなくてもいいわけです。

もちろんそれ以外にも多くの方法があると思います。
ラテラル・シンキングのジャンプアップは、さまざまな正解を生み出すことができるのだから、ひとつやふたつの答えじゃつまらないですね。

もっともこうした思考法は、総論では「その通りだ、これからはラテラル・シンキングだ」などと言ってくれますが、各論となると(今回の英語教育に関してが典型例ですが)、「このままでは日本は置いてかれる」などと右往左往してしまう。
もう少し高いところから見てみれば、もっと遠くが見えるというのに。

<前提・常識を疑うことに関する参考記事>
「自由と学校教育に関する考察2~野球とサッカーってホント契約が違うよな」(2018/06/08)

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コメント

コスパよし

陸宿借さんの1回のコメントで、2本も記事を書いちゃった。
陸宿借さんには足を向けてられないな。(どっちだ?)

ゼロベースで物事を考えるのも(ラテラル・シンキング)、一つの物事を深く掘り下げて考えるのも(ロジカル・シンキング)、いずれも大切なことだと思いますが、前者を子育てや学校教育の中で子どもたちに意識的に身につけさせるのは難しいですね。
思考の「内容」ではなく、思考の「形式」に自由度を与えることが肝になるかしら。

文化祭や運動会、修学旅行をある程度生徒に自主的に設計させ運営させるというのも、ラテラル・シンキングを身につけるための一つの装置になりうると思いますが、日常的な教科教育の中でこれを行うことができるかどうか。

子が日常的に接する親や先生自身の思考が自由でないと(縦横の自由度だけでなく、JGさんが「もう少し高いところから見てみれば…」と仰るように、高低の自由度も)、子にラテラル・シンキングの精髄が伝わらないような気もし、私にとってはなかなか難しい課題です。
(ある種の「面倒見の良さ」とは対局的な「突き放し」が必要だと思われ)

No title

 まあ 学校教育って 「教科」を学ぶところで、 テストというのは「その教科のルール」に従って解答するゲームですからね。

 先日 「家から駅までは30分かかる。8時50分に駅に着くためには何時に家を出ればいいか」という算数の問題に 小学2年生が

答え : 8時15分
理由 : 8時20分に家を出るとギリギリで焦るから

 と答えたという話がニュース番組で紹介されていました。

 それに対し、予備校講師の村瀬 哲史氏は 「気持ちはわかりますが、算数という教科のルールでは 答えは8時20分になります。 教科のルールに従う必要があります」みたいな解説をしていた。

 教科のルールは大事。

 オラ昔から疑問に思っていたことの一つが・・

化学:  酸素は水に溶けない
生物: 魚は水に溶けた酸素をエラから取り込んで呼吸する

 という矛盾。
 これは「溶ける」という言葉のルール(定義)が教科によって異なることで起こると思われる。(化学における溶ける、はかなり厳密に定義されていると思われる)

あ、だんだん脱線してきた・・

要するに「ルール」によって答えは異なるということかニャ

理学部だと「どんな物質でも落ちる速度は同じ」でいいですが
航空工学部だと「何バカなこと言ってんだ。違うに決まっているだろ」

No title

>こうしている間にも、AIによる翻訳・通訳のクオリティは進歩を続けています。

そう…なんですよね。
ただ、気になるのはそのAIの翻訳・通訳が正しいと判断できなくていいのか。
AIの翻訳機能をアップロードしていくのは人なのではないか…というところ。

私がAIの開発が良く分かっていないだけだったらごめんなさい。
ラテラルでもロジカルでもなく、ひねくれです。

No title

与えられたテーマや前提の範囲内で最適の解を求めようとするのがロジカル・シンキングで、テーマや前提自体を疑い、より良い物に出来ないかと考えるのがラテラル・シンキング、という理解でよろしいのでしょうか?
この理解で正しいとすると、ラテラル・シンキングを有効に行うには、一つの分野を極めるだけでなく、幅広い分野について学んでアンテナを張って行く必要がありますね。以前にこちらで理系と文系の境界が無くなっていくという記事を紹介させて頂きましたが、まさにそういった知識、教養を身に付けることが求められていくということなのでしょうか。

>いっそのこと世界を統一言語にすれば話は簡単

エスペラント語のことを思い出しました。

そしてなぜかヘブライ語のことも頭に浮かんできました。
ユダヤの民がディアスポラ(民族離散)によって話し言葉としてのヘブライ語を失いながらも、二千年の時を経てこれを復活させたその意味に思いを馳せながら。

>3名の幼稚園児に7個のリンゴを均等に分けるとしたら、あなたはどうしますか?
→「2個ずつ配ると1つ余りますね。私も食べたいので、残りの1つは私がいただいてもいいですか?」と問いかけて子供達の反応を見ます。分けてあげるという優しい気持ちを育てたいからです。

>エスペラント語のことを思い出しました。
→全く普及しませんでしたね。生活の糧を得るための収入に繋がらない言語を習得するような余裕のある層は、ごくごく僅かだったと言う事なのかなぁと・・・そんな風に思っております。

>そしてなぜかヘブライ語のことも頭に浮かんできました。
→ヘブライ語というと三笠宮崇仁殿下を思い出します。お忍びで様々な活動されながら、熱心に旧約聖書や古代オリエント文明の研究をされておられました。殿下の著書が広く世に出回らない事がとても残念です。

 もうひとつヘブライ語と言えば旧約聖書なのですが・・・私はカトリック教会の運営する幼稚園に通っていたため、そちらで当たり前のように旧約聖書を学びました。故に愚息にパレスチナ問題の説明をした時も旧約聖書の解説から始めました。
 ちなみに私が通っていた幼稚園の神父様はフランス人でしたがフランス語ではなく英語学習の時間がございました。
 封建的な慣習の色濃く残る田舎町で、外国人の神父様やシスター達から異文化を学ぶという幼児体験がなければおそらく今の私はなかっただろうと思っております。 

No title

 オラ幼少の頃 三方一両損の大岡裁きを聞いて
「なんで 3人で一両ずつ山分けしなかったんだろう。
オラが裁判官ならそうする。それなら三方一両得だ」と思った。 そういう浅ましい考えをするのはオラだけではないと思う。

No title

パレスチナ問題をバルフォア宣言から考えるオラは本で学んだ「知識」。

 聖書やディアスポラ、ヘブライ語から考えるみなさんのは「教養」

俺が思い出したのは、「美味しんぼ」のサラダ対決。山岡さんはドレッシングを死ぬほど研究して究極のドレッシングを作ったのに対して、海原雄山はスーパーのドレッシング売り場にこれでもかと言うほどドレッシングが並んでるのを見て、「日本人は生野菜が嫌いなのだな」と悟り、じゃあ生で食べて美味しい野菜を出しゃいいじゃないかと鉢植えのトマトを出して、一同あまりの美味しさに沈黙。で、勝利。
その道の第一人者に常にラテラル・シンキングされたら、敵わんよなあ。

私には「知識」と「教養」の違いがわかりませんが、
私がディアスポラやヘブライ語のことを思い浮かべたのも、昔読んだ何かの本の影響だと思いますので、ハルビンさんと同じです。
阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』、『新約聖書を知っていますか』(いずれも新潮文庫)だったか、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)だったか。(阿刀田さんの本はとても面白いです)

今から更に二千年経っても、世界史の教科書にディアスポラやバルフォア宣言は残っていますかね。
20世紀の出来事で二千年後も教科書に残るものはなんでしょうね。第一次・第二次世界大戦は残るだろうか。量子力学の誕生と月面着陸は残るかな。余談でした。

>なんで 3人で一両ずつ山分けしなかったんだろう。
オラが裁判官ならそうする。それなら三方一両得だ」

→お奉行様が率先して『占有離脱物横領』おすすめするのはいかがなものかと・・・

 大岡裁きでふと思い出しましたが・・・幼稚園でヴェニスの商人の紙芝居を見て、ポーシャという女性の賢さと行動力に憧れました。

真夜中のおシゴト

>ただ、気になるのはそのAIの翻訳・通訳が正しいと判断できなくていいのか。

→私もそう思います。最近、人気YouTuberの動画が深夜に大量に削除され、次々とアカウント停止に追い込まれるという事態が頻繁に発生しております。規定に反しているとは思えない動画の大量削除は、日本語に不馴れなAIの仕業としか思えません。

>私には「知識」と「教養」の違いがわかりません
→私にも分かりませんが、単純に「知識」とは“情報”だと思っております。そして、それを生活に役立てる事が「知恵」であり、人間性を高め人生をより豊かにするために取り入れようとするのが「教養」なのではないかと考えております。

>20世紀の出来事で二千年後も教科書に残るものはなんでしょうね
→その昔“人間”という愚かな生物が存在したらしいという微かな記憶だったりして(^^;

No title

>それを生活に役立てる事が「知恵」であり、

オラ、 先日、靴下とか下着とかハンカチを洗濯バサミハンガーに干したら、左右のバランスが悪かったらしい。傾いていた。

 うーむ。 モーメントの計算(知識)ならできるんであるが・・・

No title

そういえば・・・

 以前読んだ、東大の偉い先生・・物理だったか数学だったか・・・のエッセイで

*************
 自動車教習所に行ったが、どうも運転というのはうまくいかない。教習所の教官に「君は慣性の法則がわかっていないね」 と言われてあったまにきてやめた。
****************

 この話 すんごい面白いので、原典を探しているのであるが、見つからない。

濱鈴さんへ

>ただ、気になるのはそのAIの翻訳・通訳が正しいと判断できなくていいのか。

濱鈴さんのこの言葉は、言語という文化の核心をついています。
これは「AI」に限った話ではなく、たとえばいま我々がやっている、文字によるコミュニケーションでも同じことが起きている、と書いたら、すこしスリルが出てくるかな。

たとえば某教育風系掲示板に「暇語」なるジャンルスレがありまして、これは打ち間違えなどを面白おかしく伝承しているスレです。

>やはり一度結婚出産子育てなどで仕事から離れると代わりの管理栄養士はいくらでもいるので、なかなか服飾は難しい

こんな感じな打ち間違えを、「服飾業界において管理栄養士の需要がそれほどまでにあったとは!」とまぜっかえすわけですが、これなどは「復職は難しい」を「服飾は難しい」と打ち間違えたのがはっきりとしている。
その打ち間違えを認識して、そのボケにノリツッコミしているわけです。

AIが「服飾」と間違えたときに、それを聞いた人間がツッコメるかと言えば、英語からの翻訳という状況に置き換えるとたぶん無理でしょう。
しかし間違えの癖が分かってくると「ははあん、こいつは復職と間違えたな」とカンは働くと思いますし、その前にAIが間違えなくなるのが先かもしれません。

濱鈴さんの疑問にあえて応えるなら、「判断はできないだろうが、それはそれでもいい」と言ったところでしょうか。
クルマの自動運転だって、その減速や加速が正しいかなんて運転者には瞬時に判断できないでしょうし、まあそれでぶつかるのが嫌ならば、自動運転などしなければいい。
その点、異言語のコミュニケーションなんて、多くの場合多少ぶつかったって辛抱強くやれば、なんとかなることが多いもんです。

ひのき坂さんへ

>与えられたテーマや前提の範囲内で最適の解を求めようとするのがロジカル・シンキングで、テーマや前提自体を疑い、より良い物に出来ないかと考えるのがラテラル・シンキング、という理解でよろしいのでしょうか?

まあ、あまり難しく考えずに、

論理がきれいに組み立てられててスゲー、というのがロジック
論理がジャンプしててカッケー、というのがラテラル

ぐらいの方が、スマートだと思います。
どちらにせよ、中途半端だったりぐちゃぐちゃだったりして、使い物にならにならないのが大部分ですから。

つけ麺さんへ

>俺が思い出したのは、「美味しんぼ」のサラダ対決。

あ、それ、俺も読んだ!
海山の「日本人はサラダが嫌いだ」という真相をえぐるひと言に、当時戦慄した。

服飾と復職

ハルビンさんが別記事のコメントで、ヤンキー嬢が言う「しめていいですか?」のダブルミーニングのこともお書きになっていましたが、日本語は漢字とかなを混ぜて使うので特に同音異義語が多く、そこに面白さと難しさがありますね。

省庁の役人は法案を作成する過程で内閣法制局の担当官と条文を声に出して読み合わせる作業を行いますが、同音異義語を明確に区別し、間違いなく確認できるように、

「者」と「物」(もの) →「しゃ」と「ぶつ」
「規程」と「規定」(きてい) →「きほど」と「きさだ」

といった具合に読み分けます。

「取扱い」と「取り扱い」(前者は名詞として使う場合、後者は動詞の活用形として使う場合)も、読み合わせでは後者は「しゅりきゅうい」と読むらしい。

いやはや日本語は難しく、面白い。

No title

オラ、ダブルミーニンングで話を作って言いふらす悪質な人間である。

 オラの会社によく来るデザイナーで 佐藤さんという人がいた。 暑がりでいつも扇子を持って扇いでいる。佐藤さんといえば扇子だ。

 ある時、扇子を持たない佐藤さんが来社した。

 そしたら若い女の子が あ、「扇子のない佐藤さんだ」 とのたもうた。

 オラは可笑しくて 、「佐藤さん うちの若い子に センスがないって言われてますぜ」と告げ口した。

「ロジカル」と「ラテラル」の境界を疑う

ロングさん、どうも。二つも記事を書いて頂き光栄です。私は結構色々な場所をふらふらしておりますが、陸宿借の故郷は南の島ですので、普通に頭を南に向けてお休み頂ければ。

しかし、ロジカルとラテラルには明確な境目が有るのでしょうか?問題の解決の際に、目的を明確にし、ルールを先入観無しに正しく理解すれば、ロジカルとラテラルに境目はないのではないでしょうか。

7個のリンゴを3人で分ける、という問題は、「ロジカル」を厳密に突き詰めると、リンゴの大きさはそれぞれ異なるのでは?と疑問に思うはずです。それぞれのクオリティはどうなんだ?という問題もあるでしょう。そうすると、厳密に均等に分けるには、ジュースにして三等分するのがロジカル的に正しい、となるはずです。つまり、ジュースにして分けるのは、ラテラルではなくロジカル志向の帰結だと言えます。

つけ麺さんのサラダ対決の例にしても、海原氏がドレッシングを使わずに勝ったという事は、サラダにはドレッシングを必ず使えというルールは無く、山岡さんの先入観によるものであったという事でしょう。おそらく野菜を使うというのはルールにあり、野菜を一番美味しく食べるにはどうしたら良いかという目的をロジカルに突き詰めた結果、鉢植えからもぎたてのトマトを食べるという回答に繋がったのではと思います。

と、理屈っぽいつまらない話になってしまいましたが、物事を正しく理解し、最適な解決策を生み出すには、まず自分が先入観を持っていないか疑う所から始める必要があるのかなと思います。

陸宿借さんへ

「「ロジカル」と「ラテラル」の境界を疑う」というタイトルに端的に表れていますが、まさしく陸宿借さんが書くように、この2つを分けることがそもそもおかしいのです。

7つのリンゴを3人に分けるということだって、ジュースを作ってわけるのは当然「ロジカル」でもあるわけです。

ラテラル論者が出す「ラテラルエピソード」として、自動改札の長さというエピソードがあります。
自動改札を導入する際、運賃の計算に時間がかかってしまうので、どうしても自動改札のの手前で混雑が起きる。
それを解決したのは、「計算を早くするにはどうしたらいいか」というロジカルではなく、「自動改札の歩く長さを長くする」というラテラルだった、というもの。

これだってロジカルですよ。だって混雑を解消するためには、「計算を早くする」のほかに「歩いてもらう」があるわけですから。
ロジカルもラテラルも、別に出自は同じです。

ですが同じものでも包装紙を変えればそれだけ売り上げが伸びるように、この業界はいろいろとモノを売らなくてはいけません。
それも手に取ることもできなければ、目に見ることもできないモノをです。

そんなわけで、ラテラルが出てきて、新製品ですから誉めるレヴューもつきますわな。
でも、ロジカルが前提から見つめ直すことをしちゃいけない、なんてことはないわけです。

ですから、リアルの世界で「ラテラルはロジカルに比べてどうたらこうたら」なんて言ってる人がいたら、やさしい目で見てあげてください。

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ジャーナル・ギャップ

Author:ジャーナル・ギャップ
酒と野球とミステリーをこよなく愛するが、なんの因果か中学受験についていろいろ書いていくことに。

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