FC2ブログ

記事一覧

習い事万感

バレエでもピアノでもスポーツでも、「そんなのやって何になるの?」と意地悪なことを言ってくる人がいる。
塾や予備校に行かせるのはわかる。良い学校に行けば、将来役に立つから。でもプロになるわけでもないのに、バレエとかピアノとか野球とかサッカーとかって。

余計なお世話であるが、まあ、こういう人はいますな。
そこで、習い事はすべて教養のためだと断言してみる。
教養のためと割り切れば、習い事は何でもいい。好きなものでいいし、あえて嫌いなものだっていいくらいだ。

さて昨今我が国における教育は混沌の極みである。といえば大袈裟か。混沌としているのは大学入試くらいか。
しかし大学入試というもの、ひいては大人(老人)が子ども(若者)に与えようとする教育が、あっち行ったりこっち行ったりしているのは事実だろう。

こういうのは流行があって、少し前はリベラル・アーツが大流行だった。
それが理系教育をしなくては亡国の道を辿るゾと脅されるようになり、ここ数年は英語英語4技能である。英語がしゃべれないと生きていけないと尻を叩かれている。
もうリベラル・アーツの「リ」の字も残っていない。

ところが俺はこのリベラル・アーツというやつが大好きでね。そもそもこれが国民教育の終着点だと思っている。
それから先は得意なやつがやれば良い。経済が得意なら経済をやれば良いし、法律が得意なら法律を。文学なら文学、工学なら(以下略

ところが現実の国民教育たる義務教育において、自由七科のリベラル・アーツなんてまどろっこしいことはやってられないし、そもそも国家においてはそれよりも早くエネルギーに変わる炭水化物のような教育が必要なわけだ。
もっと言えばリベラル・アーツがリベラル・アーツとして機能すると言うことは、そのリベラル・アーツに具体的な効能がないことが重要なのだと思う。

リベラル・アーツは教養と訳される。
そして教養は「あの人は教養がない」とか「教養のある話し方」というような使われ方をするが、これらの場合教養は採点する術がない。

たとえば「バラ」を漢字で書けるのは教養の一つかもしれない。
しかし「なあ、俺、薔薇って漢字で書けるんだぜ」と言ってるようでは、「教養がある」とは言えない。
やはり何気なくさらさらっと書かないと、こういうのは「教養がある」とは映らないだろう。
そういうわけで、さらさらっと「薔薇」と書いた伊集院静に落ちた夏目雅子の気持ちもわかろうというものだ。

教養は自らがその力を発揮するものではなく、にじみ出てくるようなものではなくてはならない。
あるいは「そのように演出されるもの」と言い換えてもいい。

さて習い事はすべて教養のためだと、再度断言してみる。
たとえばバレエダンサーになるためのバレエレッスンは「教養」にはなり得ないし、また「習い事」とも言えまい。
しかしバレエダンサーになることを諦めた者にとっては、それは「習い事」であり、「教養」になりうる。
かつてある種の特権階級にとっては、馬術が教養の一つであった。しかしジョッキーになるためのトレーニングをしたわけではない。
早く馬を走らせることで教養が測れたわけではないのだ。

街角で不意にストゥニュ・アントゥールナンが起きたり、楽器店のピアノで軽やかなアマデウスが奏でられたり、余興のキャッチボールでスライダーが混ぜられたり。
そうした瞬間、我々は人生のある種の豊潤さに出会えた喜びを感じる。

教養には目的はない(女優を落とすというのは余禄だ)。あるとすればそれは象徴だ。
古代ギリシアの頃「教養」(=リベラル・アーツ)は、自由民(=特権階級民)としての象徴でもあった。
現代では教養が何の象徴になるのかは即断できない。ある人にとっては鮮やかな個性の象徴かもしれないし、ある人にとっては高い教育を秘めている象徴かもしれない。

そしてある人にとって教養は、親に愛された象徴になるのだろう。

にほんブログ村 受験ブログ 中学受験情報へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



コメント

紐解きはディナーのあとで

JGさん、滋味深い記事をありがとうございます。
記事の一つひとつの段落が味わい深いですが、まだ咀嚼しきれていないので、週末に色々と考えてみたいです。

私もリベラルアーツ大好き派です。
が、面白さに気づいたのは大学卒業後。
大学でちゃんと学んでおけばよかったと後悔しています。

大切なことはいつも失って気づく。
それとも、失ったがゆえにそれを大切だと思い込んでいるのか。

No title

 千葉にはジュニアゴルフの聖地みたいな場所が数箇所ある。 オラもよく知っているコースも含まれる。
 真剣に子供をプロゴルファーにしようとしている家庭もあれば、「まあそこそこ」という家庭もある。
(そこそこでも 小学生で世界大会に行ったりする)

※ジュニアゴルファーは とても上手だ。
 一緒に回ると コロッと負かされる。

 当然だが、オラん家とは階級が違う。要するに金持ちってことだ。
 ゴルフを通して知り合った仲間なので一緒にコンペやパーティに参加しているが、行くたびに「階級が違うニャ」と思う。  

 金持ちってのは余裕があるのだ。 ガリガリ「プロにさせよう」とか ガリガリ勉強させようとは思わないらしい。

 でも オラん家みたいな貧乏家庭は勉強せなあかんよ。 貧乏家庭はスポーツでも勉強でも習い事でも、それを「武器」にせねばならない。「趣味」じゃないんだよん、「武器」だ。

(品のない話ですんません)

※今日、 女子ゴルフのトーナメントを見に行ってきた。 千葉や茨城でトーナメントがあると、平日に休みを取って見に行くことにしている。
 楽しかった。  プロのプレーを見ながらビール ビール ビール・・

No title

おはようございます。

なんか最近 忙しいせいか 投稿内容がささくれだっているような気がします。すみません。 
上品に、上品に・・・

 言いたいことは、オラん家は子供に残せるものは何もない。遺産も美田も残せない。
 
 教育(特に学校教育)はある程度 コントロールできる。できる限り残してやりたいと思う。 

 難しいのは教養だ。 教養はまず「遺伝」がある。遺伝子による遺伝ではなく、家庭での会話、経験による遺伝だ。これは難しい。

 小説、映画、音楽、絵画、舞台、古典芸能、雑学、科学、スポーツ・・・ 

 教養を与えるのは無理だが、「教養を欲する気持ち」と「教養を得る方法」は、なんとか10代に身につけてほしい。

 まずはいろんなものを経験させて、旅行でも少しずつ文化に触れて・・・だろうか。

※昔は、やっぱり「読書」が基点だったと思う。
 まず読書をし、そこから広がる世界を調べ、経験して行く・・・ 今はどうなんだろう。 ユーチューブから広がるだろうか。

教養遺伝、鳳凰美田

おはようございます。

お仕事お疲れさまです。ハルビンさんの投稿はささくれだっていないと思いますよ。

>教養はまず「遺伝」がある。遺伝子による遺伝ではなく、家庭での会話、経験による遺伝だ。これは難しい。

>教養を与えるのは無理だが、「教養を欲する気持ち」と「教養を得る方法」は、なんとか10代に身につけてほしい。

これはしみる言葉ですね。
大きくなると子どもの交友や行動、視野が広がりますが、それに伴い自分の興味関心を自分で見つけて掘り下げて行けるかは、小さいうちの家庭での会話などの影響もあるかもしれませんね。

特に小さいうちは、親が見ているように子も世界を見るようになるし、思考の鋳型も親を真似しているので、「親の視野に入っていない教養領域は、子に伝わらない」ということが起こりそうです。
厳しい課題だ…

習い事の一部には、「親が持っていない教養領域を外から買う」という意味もあるかもしれません。

教養は外からも内からも来る

>親が持っていない教養領域を外から買う

こういう視点はありませんでした。
確かに親は万能ではないので(当たり前だ)、こうした側面はありますね。

もはやyoutubeもひとつのインフラか

>難しいのは教養だ。 教養はまず「遺伝」がある。遺伝子による遺伝ではなく、家庭での会話、経験による遺伝だ。これは難しい。

うちの子どもたちは、まったく本を読まない。
映画も見ないし野球もやらない。
遺伝してくれないなあ。

>教養を与えるのは無理だが、「教養を欲する気持ち」と「教養を得る方法」は、なんとか10代に身につけてほしい。

金言です。

私はYouTubeを進んで見ることはあまりないですが、知識や情報の流入口としては、利用できるものは何でも利用したらよいと考えているので、YouTubeを通じて知の世界を広げることもあってしかるべきだと思います。

ただ、知識を自らの血肉とし教養のレベルにまで高めるとなると、ある一定の領域の知識群を「総体的」かつ「体系的」に「言語化」して取り入れる必要があると思われ(※1)、この観点からはYouTubeよりも本のほうが優れている面があるのではないかと思っています(※2)。

※1 木を見るだけでなく森を見て(総体的)、森の中におけるそれぞれの木の位置付けを見て(体系的)、そういう全体像を言葉で説明できること(言語化)。

※2 YouTubeには本にはない「動画」と「音声」がありますから、視覚的・聴覚的に獲得される知識についてはYouTubeのほうが優れている面もあろうと思います。

いずれにせよ、本であれYouTubeであれ親や友だちとの会話であれ習い事であれ、入口は何であっても、興味・関心の種を見つけて(「教養を欲する気持ち」)、その種に自ら水をやり育てられる(「教養を得る方法」)ようになってくれたら十分。
これは一筋縄ではいかないのでしょうね。
まずは親である私が教養を欲し、教養を得ようとし、その姿を子に見せなければならぬわけで。きつい…

本の少しの一致

>うちの子どもたちは、まったく本を読まない。

うちも同じです。
親は揃って読書好きだし、乳幼児の頃から絵本を読んだり遊んであげたし、家にはいくらでも好きに本が読める環境があるにもかかわらずあまり読みません。

もしかしたら、親や周囲が与え過ぎて、本や教養は自ら手に取るのではなく、もらえるもの、という受身の姿勢が身についてしまったのかも。

とどめは、小学校で読書何ページのような読書の累計ページ数を競わせる指導があったことで完全に嫌になってしまったようだ。
うちの子は一つの本をじっくり読むタイプだったので、この読み方は合わなかった。

面白いことに中学や高校になってから、古文に興味を持ち、自分で本屋で古典を買って来ては読んでいた。
鉄道関連の本もそうだ。

いまは、まあまあ普通に読書してる、と思う。
でも関心のある分野は、親とは違うのでやっぱり遺伝しませんねぇ。
唯一の例外は漫画かな 笑

No title

学校の「読書感想文」って 本を嫌いにさせるためにやっている気がします。

※オラは反抗して、2ページくらいのショートショートで感想文書いたり、 「プログラミング言語」の本で感想文書いたりした・・・

 次男がそんなことやったら、「やめろ 内申に影響する」と止めますが

 庶民なので教養云々などという難しい事は考えずにやりたい事をやってきました。体裁や他人の評価等気にする必要がなかったという事もあり、やってみたいと思ったらとりあえずやってみるような感じでしたので・・・30代の頃は氷上でWジャンプ(2種類のみ)を跳ぶ事が出来ました。正式なインストラクターではなく外貨を稼ぎに来日していた中国人(元選手)に基礎から教えていただきました。
 フィギュアスケートというのは昨今大変人気のあるスポーツになりまして、時折、リンクサイドに張り付いてお子様に激を飛ばしておられる親御様をお見かけする事がございます。しかしながら、おっしゃっておられる事が支離滅裂だということも非常に多い(苦笑)ご自身はダブルどころかおそらくシングルジャンプも跳べないであろうお母様方が鬼の形相で的外れな事を叫んでおられる姿を見て・・・子に何かアドバイスする時は、まず自分がやってみてからにしようと思いました。

No title

 テレビ見ていて、オジサンは陥落してしまった。
 
 女子ゴルフの渋野日向子選手である。
 今日、優勝した。

 この選手、決して美人じゃないが華がある。
 満面の笑顔でプレーする様子は、思わず感情移入してしまう。
 オラ、アイドルとかにハマったこともないし、顔で偶像崇拝することはほとんどないのであるが、この選手にはコロッと落とされてしまった。

 来月、千葉でトーナメントがあるから 追っかけてみようかニャ。

※などと思っていたら、この選手、おじさんキラーと言われているらしい。 笑顔に陥落したおじさんはオラだけではないらしい。

No title

 アホ息子2号が卓球に夢中になっている。

 今 インフルエンザで休んでいるのであるが、「右手が卓球したいと疼いている」んだそうニャ。

 学校の部活がメインであるが、2ヶ月くらい前、レッスンスクールからスカウトされた。 中学を巡って素質のありそうな選手をスカウトして回っているらしい。

 「この子は必ず県大会に行ける。インターハイも夢ではない」と言われた。 
 もちろん 営業トークだろう。
 まあいい。 たいしたレッスン料じゃない。本人もコーチに褒められてその気になっているからよしとしよう。

 そしたら本当にみるみる上達した。 2ヶ月で別人になった。 やる気があると人間ってのはこうも変わるのだ。

 夢中になることが見つかると 親に邪魔されたくないためか勉強もやり始めた。 テスト前の勉強の集中力もついてきたのだ。

 成績も上がっているし 部活も熱心で、まあ3年の大会まではそれでいいや。
 こういう経験も人生の糧になるだろう。

目指せインターハイ

> そしたら本当にみるみる上達した。 2ヶ月で別人になった。 やる気があると人間ってのはこうも変わるのだ。

凄いなあ。いい成功体験積めてますね。

No title

 部活はなんのためにあるか?部活の意義は?目的は?

 これも腐るほど議論されてきたテーマだ。
 プロになれるレベルの人はそんなこと問うまでもない。「将来プロになって稼ぐため」だ。しかし大多数はそんなレベルではない。

 これについて半年くらい前 ヤフーの記事を見て目から鱗が落ちた。

 部活は、「勝つ快感」と「負ける悔しさ」を覚えることに意義がある、というのだ。多分、 「努力」→「力が上がる」→「勝つ」→「嬉しい」というサイクルを脳に覚えさせるということだろう。

 ところが学校教育では「勝つためにやる」というのはよろしくないらしい。

 勉強でも「医者になるために勉強する」はOKでも 「一番になって優越感を味わいたいから勉強する」は教育上は多分NG。 それと同じ?かもしれない。

 勝つためにやる、は学校教育の建前上はよろしくない。
 で、「チームワークを身につけるため」「努力の大切さを知るため」とか それっぽい理屈をつけているというのだ。

 なるほど、とオラは思った。
 今のところ、この意見は納得できる。また変わるかもしれんけど。

  

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ジャーナル・ギャップ

Author:ジャーナル・ギャップ
酒と野球とミステリーをこよなく愛するが、なんの因果か中学受験についていろいろ書いていくことに。

最新コメント

最新コメント